日本橋蛎殻町一丁目遺跡内播磨国山崎藩本多家屋敷跡125号遺構出土遺物とは
日本橋蛎殻町一丁目遺跡内播磨国山崎藩本多家屋敷跡125号遺構出土遺物とは、江戸時代の本多家上屋敷跡にあった火災後の整理穴から出土した96点の遺物で、中央区登録の区民有形文化財です。大名屋敷の器や道具のまとまりから、当時の暮らしと格式を伝えます。
火事の片付け跡に残った96点
資料は、2002年から2003年の発掘調査で見つかったもの。陶磁器や土器、金属製品、石製品など96点が登録され、所在地は新富一丁目の中央区立郷土資料館です。
名前にある「125号遺構」は、火事で出た焼土や家財を片付けるために掘られた焼土整理坑。長さ5.04メートル、幅1.92メートル、深さ0.64メートルの穴から、焼けた遺物や瓦がまとまって見つかりました。単独の器ではなく、火災後に一度に廃棄された家財として読める手掛かりといえるでしょう。
山崎藩本多家の上屋敷を伝える
遺跡地は、日本橋蛎殻町の一角にあります。播磨国山崎藩1万石の本多家は、1732年にこの土地を上屋敷として拝領し、1864年までの132年間利用しました。125号遺構の遺物は18世紀前葉から中葉のもので、本多家が屋敷を使い始めた頃の生活を映しています。
なかでも目を引くのは、鍋島藩の御用窯で焼かれた磁器の五寸皿。同じ意匠の皿が10客組で見つかり、ほかにも同形・同文様の高級な器が複数そろっていました。中央区は、こうした器がハレの日や賓客をもてなす場で使われた可能性を示しています。
日本橋トピック♪火事の片付け穴から、10客そろいの鍋島焼
発掘されたのは一枚だけの皿ではなく、鍋島焼の五寸皿10客組でした。さらに、同じ形と文様の高級な器も複数そろっています。火事で家屋の一部と家財がまとめて捨てられたからこそ、大名屋敷の器がどのような組み合わせで用意されていたかを読み取れるのです。
日本橋蛎殻町一丁目遺跡内播磨国山崎藩本多家屋敷跡125号遺構出土遺物に関するよくある質問
- 125号遺構とは、建物の番号ですか?
- 建物ではなく、発掘調査で付けられた遺構の番号です。125号遺構は、火事の後片付けで焼土や家財を捨てるために掘られた焼土整理坑でした。
- 96点の遺物から何がわかりますか?
- 陶磁器や金属製品などの組み合わせから、本多家上屋敷の暮らしを考えられます。10客組の鍋島焼など、高級な器をそろえて使っていた様子も読み取れます。

